オーストラリア

ロンリープラネット コラム集

オーストラリアのアボリジニ ゲーリー・プレスランド

オーストラリアについて

近年の推定によれば、ヨーロッパ人の侵略が始まった当時、オーストラリア全土には、約100万人のアボリジニがいたとされている。

アボリジニの祖先がオーストラリアに最初に到着した正確な時期を断定することは、今後も不可能だろう。現在推測できることは、約4万6000年前、海面が今よりもっと低かった氷河期におそらく移動の第一波があったということである。アボリジニの祖先は東南アジア地域を経由してやってきた。そして、オーストラリア大陸にたどり着くためには、少なくとも幅70kmに及ぶ水路を越えて航海を行わなければならなかった。到着地点(海面上昇によって水没してからすでに長い月日が流れている)から、アボリジニは比較的短期間のうちにオーストラリアのあらゆる環境の地域へと分散していった。南東部のメルボルン近郊や南西部のパース付近にあるスワン川の古代遺跡の年代は約4万年前まで遡るとされている。ニュー・サウス・ウェールズ州西部のマンゴー湖Lake Mungoにある2つの墓地の年代も、最近同年代のものとして修正された。

オーストラリアは、狩猟採集民族の住む大陸であった。地域によって違いはあるが、この国の多様な生態圏のどこにいようとも、人々は入手可能な自然の資源を最大限に活用して生活していた。しかし、このやり方は全く受け身の行動というわけではなかった。アボリジニは往々にして、狩猟と採集の効率を最大限にするための工夫をしていた。ビクトリア州西部では、ウナギを捕獲するための精巧なワナが製作された。北部湿地帯では、生産性をあげるため芋類の茎根の移植が普通に行われていた。また、大陸全土で、移動や作物の生育を促進させる際に草木を一掃する手段として火が使われていた。多くの地域で、この「火起こし棒による農業」が草原の環境維持に役立ったのである。

文化的な要素は大陸各地で保存され、口承という形で世代を越えて受け継がれている。特に重要視されているのは、先祖が「ドリーミング」の間に世界を創造したという物語を伝承するために歌を歌うことである。力強い物語を伝える短い歌は、特定の場所に関連しているかもしれない。あるいは、一連の歌がひとつに結びつけられるときは、あるひとつのドリーミングの軌跡と結びつくかもしれない。後者の場合は、一連の歌はとてつもなく離れた場所まで伸びた線を表現するソングラインと呼ばれることがある。そういった歌を詳しく知っていることは、個人の中に偉大な力を持つ印であると考えられた。

かつて、オーストラリアとタスマニアには約250種の言語、約700種の方言が話されていた。最も重要な社会集団は部族で、特定の地域と強く結びついていた。土地と毎日の狩猟採集生活のあり方は、切っても切れない関係にあったため、部族の活動のあり方は必然的に土地柄を色濃く反映させることになった。定期的に移動することはあったが、アボリジニは遊牧民ではなかった。むしろ、季節ごとの変化や儀式やトーテム崇拝を行うため自分たちの土地の内部を移動していたのである。初期の移住者たちは、オーストラリア各地に先住民の定住「村」があるという記録を残している。

多くの部族は、広範囲に渡り、物や考え方を交換するネットワークを持っていた。こうしたネットワークのおかげで北部のカーペンタリア湾Gulf of Carpentariaで採れた真珠やイナズマツノヤシという巻貝を、南へ3000km離れたスペンサー湾Spencer Gulfまで運ぶことができたのである。

ヨーロッパ人のオーストラリア定住は1788年1月にシドニーから始まったが、アボリジニはこれに先立つ数百年前からお互いに連絡を取り合っていたのである。15世紀以降、オーストラリアの海岸線は、ヨーロッパからやって来る船によって定期的に確認され、17世紀に入ると、ようやくオランダ船やイギリス船が北西側の海岸に短期間寄港するようになった。18世紀中頃から東南アジアの漁師が沿岸海域で定期的にナマコ漁を行っていた。彼らもアボリジニと取引を行い、多数のアボリジニをインドネシアに連れ帰った。

シドニーの植民地化を皮切りに、オーストラリア全土でアボリジニの土地は徐々に占領されていった。この侵略はありとあらゆる方角から行われ、その土地のアボリジニから抵抗を受けた。辺境地帯での暴力沙汰は日常茶飯事だったが、一方では双方の利益のために協力関係が築かれる場合も多かった。東部の、入植者の人口が多い植民地では、先住民人口への影響は劇的かつ急激なものとなり、入植者によって運び込まれた病気による犠牲者や出生率の急低下が認められた。自分たちの土地を奪われたことは、伝統的なアボリジニ文化の大部分が崩壊した大きな原因となった。

4万年以上にわたって、オーストラリアのアボリジニは、多くの困難に対処するために生活の知恵を編み出してきた。ヨーロッパ人の侵略によって急激かつ大規模な変化がもたらされたが、アボリジニの文化は滅びることなくさまざまな形で現代に受け継がれている。

1960年代後半より、アボリジニを意味する「クーリKoori」(または「クーリーKoorie」)という言葉が広く使われるようになった。これは、オーストラリア南東部に住む多くの部族の言葉で「人々」を意味し、特定の地域にすむ先住民を区別するために使われる同様の多くの言葉のひとつである。クーリはニュー・サウス・ウェールズ州またはビクトリア州出身の先住民を指す。ミューリMurriはクイーンズランド州、ヌンガNungaはサウス・オーストラリア州、ニュンガーNyungarはウェスタン・オーストラリア州のアボリジニをそれぞれ意味する。

1788年初頭、アボリジニの土地が最初に侵略されたとき、オーストラリア大陸は無主地Terra nullius、つまり所有者のいない土地と考えられていた。この勝手な考え方は20世紀後半になるまで広く当然のこととして受け入れられていた。1968年、ノーザン・テリトリー準州のウェーヴ・ヒルWave Hillで牧畜業を営んでいたグルンジGurundjiのグループが、アボリジニの土地所有権を主張する最初の訴訟を起こした。この訴えは棄却されたが、これをきっかけに、現在でも続いているアボリジニの土地返還要求運動が本格化した。

1982年、トレス海峡のマー島Mer(マレー島Murray Island)に住む、コイキ(エディ)・マボ率いる少人数グループが、自分達の土地の伝統的所有権を確立するために、クイーンズランド州最高裁判所に訴訟を起こした。この裁判は、最終的にオーストラリア連邦最高裁判所に上訴され、1992年、マボたちの要求が認められた。この記念すべき判決は、社会通念となっていた無主地の考えに異を唱え、アボリジニには伝統的な土地の所有権を主張する権利があると宣言した。

その後数年間で、労働党率いる連邦政府は、マボ判決を法制化した。しかし、この法律は放牧リース地については例外としたため、牧畜業内部に混乱を引き起こし、鉱業・資源業界の不信を招いた。また、特にポーリン・ハンソンのような悪名高い人物にたきつけられたアボリジニたちが、土地所有権を主張する訴訟を続々と起こすのではないかとの風評が広がった。

1996年の総選挙の結果、ジョン・ハワード率いる保守政権が誕生した。その直後、クイーンズランド州北部のウィク族が起こした新たな境界訴訟で、最高裁判所は放牧リース権と先住権は共存しうるという判決を下した。アボリジニの土地返還訴訟が急増することを懸念したハワード政権は、急遽この問題におけるアボリジニの権利を制限する行動に出た。10項目から成る先住権法政府改正案が作成されたが、これは事実上、過去の労働党政権による改革の多くを廃止することを意味し、先住権に大きな制限を加えた。この法案の下で、アボリジニは聖地を訪れて儀式を行う、あるいは食物や水といった物資を獲得する目的であれば放牧地に入ることができる。先住権については、それが放牧業者の権利と衝突する場合には抹消された。

ゲーリー・プレスランドはアボリジニの歴史をテーマに幅広い執筆があり、「メルボルンのアボリジニ:クリン族の失われた土地Aboriginal Melbourne: The Lost Land of the Kulin People」の著者。

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