
1918年〜70年に、オーストラリア政府はアボリジニの子供(そのほとんどが5歳未満だった)約10万人を強制的に両親から引き離し、数10km離れた場所の施設か、白人の里親のもとに送った。元の家族との接触は意図的に困難な状況に置かれた。連れて行かれたのは、逃げ出そうとしても家にはとうてい帰れないほど遠い場所で、別の州であることも多かった。子供の多くは両親が死亡したと言われ、両親には子供がどこへ連れて行かれたかを教えられる事はまれだった。
施設では、子供は最低限の教育しか受けられなかった。生活環境は劣悪で、食事もまともに与えられなかった。多くの子供が性的虐待やそのたの虐待を経験している。このように親から引き離され、現在生き残っている人たちは「盗まれた世代」と呼ばれて、オーストラリアでは政治的な大問題となっている。その一人、ロレイン・マフィ-ウィリアムズ女史が、ロンリープラネットに次のような手記を寄せた。
私は兄弟姉妹とともに、屋根のないトラックの荷台に乗せられました。ニュー・サウス・ウェールズ州のアーミデールに到着するまでに、道から舞い上がる赤い埃にまみれ、ほんとうに惨めな姿になっていました。トラックから降ろされたときにはなにがなにやら、すっかり混乱していました。シッドとジョンはキンチェラ男子施設へすぐに送られました。ベルは100km離れた家畜牧場へ労働者として連れて行かれました。イレインとルーシーと私は、アーミデールの孤児院へ送られました。私はそこで1年間過ごしましたが、非常に反抗的な子供でした。まだ幼かった私には、施設に閉じ込められ、両親から引き離されるという事に納得できなかったのです。なぜこんなことになったのでしょう。私がアボリジニの子供だったからなのです…。この人たちはなぜこんなことをしたのでしょう。私は途方に暮れ、孤独で、逃げ出すために何でもやってみました。自殺しようとしたこともあります。しかし、それは後の話です。
妹のルーシーは病弱で、毎晩のようにおねしょをしました。孤児院の保母はそれを見とがめ、毎朝、革紐でルーシーを叩くようになりました。私はルーシーに、私の乾いたシーツと彼女のシーツを交換し、私の乾いた寝巻きを彼女に着せるから夜起こしてくれるよう言いました。朝になって保母がベッドを調べると、濡れているのは私のベッドです。私はルーシーの代わりに叩かれました。
数カ月後、私は家政婦としての訓練を受けるためにクータマンドラ女子ホームへ送られました。私はひどく汚れた衣服を洗い、汚い床をこすり、赤ん坊の尻を拭くいやな仕事をしました。ベッドと1日3回の食事と引き換えに、夜明けから日暮れまで働きました。私は13歳でした。
18歳の時、ついに自由の身となりました。私はクータマンドラ女子ホームから解放され、シドニーで仕事を見つけました。ほかのアボリジニに私の両親を知っているかどうか聞いて回りました。ある日、背の高い、がっしりとしたハンサムな肌の黒い男の人が私に近づいてきてこう言いました。「君はロレイン・ターンボールか。僕は君のいとこのダーシーだよ。」彼は私の両親の居場所を教えてくれました。
私はすぐに荷造りをしてターリー行きの列車に乗りました。パーフリート・ミッションに両親が住んでいたのです。私の生まれた土地です。列車を降りた時、両親は駅で待っていました。私は両親が知っていた子供ではなく、大人の女性になっていました。私たち3人は抱き合い、泣きました。そのとき私は19歳で、家に帰った最後の子供でした。
Text & maps © 2008 Lonely Planet Publications. All rights reserved.
Photos © 記載の写真家。Lonely Planet Images より掲載、使用許可は右記のURLから可能 www.lonelyplanetimages.com
内容のいかなる部分もロンリープラネット社の許諾なしに複製・複写・放送・データ配信することはかたくお断りします。内容は、ロンリープラネット社のガイドブック英語原書『Australia』の日本語版『オーストラリア』(メディアファクトリー刊)から引用しています。
執筆者、コンテンツ提供者と日本語版発行者である(株)メディアファクトリーは可能な限り正確な情報を記載するよう努めているが、本情報の使用により被った一切の損失、損害に対しては責任を負うものではない。