
本家・ミラネーゼに会える、モードの都
ミラノは、スタイルと同義だ。この熱狂的な州都はイタリア経済のエンジンルーム、つまり世界のデザインの発電所であり、ファッションショーの表舞台ではパリのライバルである。イタリアの株式市場と主要企業の大半がミラノを本拠地としている。全国で産業が最も集中しているのもここだ。この過剰な富と地位に自然な派手さが相まって、都会ずれしたミラネーゼが他のイタリア人、特にトリノやローマ、そしてさらに南の地方の人たちに好かれることはあまりなく、しゃくな気取り屋だと見られている。 写真を拡大する⇒
ミラノは都会好きにしか向かない町だ。巨大で無秩序に広がり、喧騒に満ち、交通網が張り巡らされ、慌ただしく、ストレスに満ちている。その広さからして、名所はふんだんではないが、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐L’Ultima Cena」は世界の名作の一つであり、スフォルツァ城Castello Sforzescoもこの地域の呼び物だ。しかし、ここでするべきはショッピング。見栄っぱりたちがどっと押しかけるゴールデン・スクエアQuadrilatero d’Oroの街角には、世界のトップデザイナーの洗練された商品が並ぶ。この町はまた、最も国際的な音楽ツアーのプログラムでも頂点だといえる。人々が集う光景は流行色と活気にあふれ、この都会的なオアシスでは劇場と映画館が繁盛している。
食べ物もミラノの楽しみの一つ。ヴェルディやその他の著名な作曲家が食事をした歴史的なカフェが多数あり、イタリアの典型的なクリスマスケーキである甘いパネットーネpanettoneは、ロンバルディア州の大聖堂のそびえ立つドームをかたどっている。ついでながら、このミラノの華美な大聖堂は世界で4番目の大きさである。
ミラノの都会的なスマートさとみなぎる活力には抗い難い。滞在するには出費がかさむかもしれないが、北イタリアを訪れるなら、ここを見過ごす法はない。ただ、地元住民も疲れて逃げ出すほど暑苦しい8月には訪れないことだ。
ケルト民族が創建
ミラノは紀元前7世紀、ポー川沿いに定住したケルト民族によって創建されたといわれている。紀元前222年、ローマ軍がこの領地に進軍し、ゴール人のインサブレ族を打ち負かして町を征服し、ここをメディオラヌムMediolanum(「草原のまん中」の意)と名づけた。メディオラヌムは、ローマと北西ヨーロッパを結ぶ貿易ルートの重要な地点に位置していたため引き続き繁栄し、ここで西暦313年、コンスタンティヌス帝がキリスト教の礼拝の自由を認める重要な布告を発した。4世紀の終わりまで、皇帝に支えられたメディオラヌムに押されて、ローマは崩壊していく西ローマ帝国の首都として機能することはなかった。
11世紀、コムーネcomune(自治都市)が形成された。すべての階級のメンバーで構成される議会が統治する都市国家は急成長の時代に入ったが、まもなく近隣の町々と衝突し始めた。神聖ローマ帝国皇帝バルバロッサ1世(フリードリヒ1世)はこういった地元の抗争に乗じて1162年、ミラノを包囲した。これに対し、ミラノとその同盟国はロンバルディア同盟を結成して1176年、報復を行った。
ミラノは13世紀半ばより、トリアニス家、ヴィスコンティス家、そして最後にスフォルツァ家と、歴代の君主によって支配されていった。1535年、ミラノはスペインに支配されたが、1713年にオーストリアにその統治権が移行した。
1797年、ナポレオンはミラノをチザルピーナ共和国の首都としたが、5年後にはイタリア共和国の首都とし、1805年、自らイタリア国王となった。1814年、再びオーストリアに支配されるが、1859年、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世とナポレオン3世の軍隊がすぐにオーストリア軍を叩きつぶし、ミラノは初期イタリア王国の一部となった。
第一次世界大戦後、ムッソリーニはミラノでは社会主義の新聞「Avanti!」の編集者だったが、この町をファシズムの温床に変え、1919年にはファシスト党を結成した。第二次世界大戦中、連合国の爆撃がミラノ中心部の大半を焼き尽くした。
戦後、ミラノでは急速な経済の回復が見られたが、1960年代にはネオ・ファシズムのテログループが生まれ、1969年12月、ミラノ銀行で起きた爆発事故では16人が死亡した。1980年代後半、ミラノの実業界と政界のリーダーが無能で腐敗したローマの政府に対して抗議を起こしたことや、南部に補助金が送られたことから、分離派の北部同盟Lega Nordが誕生した。1992年、タンジェントポリ(汚職の町)事件が起きた。何千人ものミラノの政治家、役人、実業家がこれにかかわっており、その中にはファッションデザイナーのジャンニ・ヴェルサーチやジョルジオ・アルマーニも名を連ねていた。その1年後、ミラノの現代美術館の外でシチリア・マフィアのテロ爆弾が破裂し、1995年、ファッション業界の大物マウリツィオ・グッチが、同じ通りにあった自身の事務所で銃殺された。
2001年、一代の叩き上げでミラノの有力者(かつイタリア一の金満家の)シルヴィオ・ベルルスコーニがイタリア首相に選任され、法的にも金銭面でも物議をかもしたにもかかわらず生き残り、イタリアで戦後最も在任期間の長い首相となった。
ショッピング街は大聖堂の北
ミラノのアトラクションの大半は、大聖堂とスフォルツァ城Castello Sforzescoの間に集中し、そのどちらも地下鉄メトロポリターナ・ミラネーゼMetropolitana Milanese(MM)の駅からアクセスできる。他に観光客がよく訪れる場所といえば、大聖堂のすぐ北側のブレラ地区Brera。ここには多くの画廊とファッショナブルなショッピング街がある。また南側のナヴィリ地区Navigliも人気だ。町の北部のポルタ・ガリバルディPorta Garibaldiでは、コモ大通りCorso Comoにファッショナブルなバーやクラブがある。

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