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イタリア完全踏破|ヴェネツィア - MSNトラベル×ロンリープラネット

イタリア

ヴェネツィア

往時の風格がただよう水の都

ヴェネツィア

Alan Benson

何世紀にもわたり、作家や旅行者からこれほど多くの賛辞を受けている都市は、ヴェネツィアをおいてほかにはないだろう。 現在のヴェネツィアはもはや偉大な海運共和国ではなく、建物の崩壊と高潮の脅威にさらされているが、そんなことはひとまず忘れよう。写真を拡大する⇒

現在のよどんだ大運河Canal Grandeでは、バイロンも深夜の逢引の後にひと泳ぎ、という気にはなれないだろうが、1世紀前のヘンリー・ジェームズの言葉は今もあてはまる。「愛すべき古きヴェネツィアは、肌の色つやや容姿は衰え、かつての名声や自尊心はどこかへ消え去ってしまった。しかしなお、不思議なことに、その風格は少しも損なわれていない」。「ラ・セレニッシマ・レプッブリカLa Serenissima Repubblica(最も高貴な共和国)」と呼ばれたヴェネツィアは、今も昔も唯一無二の場所なのだ。

ヴェネツィアのロマンと美を発見するための秘訣は、「歩く」こと。カンナレージョCannaregio、ドルソドゥーロDorsoduro、カステッロCastelloと呼ばれるセスティエーレsestiere(地区)の一部は、ハイシーズンでも観光客はほとんどいない。アカデミア橋Ponte dell’Accademiaからサンタ・ルチア駅Stazione di Santa Lucia(鉄道駅)に続く狭く曲がりくねった通りでは、サン・マルコSan Marcoやリアルト橋Ponte di Rialto方面を示す標識も、(少なくとも旅行者には)ほとんど意味をなさず、何時間も迷うかもしれない。でも、そうやって過ごす時間もまた、何ともいえないくらい楽しいものなのだ。


ヴェネツィアが最も混み合うのは、5〜9月、クリスマスから新年にかけて、カルネヴァーレCarnevale(2月)と復活祭の時期だ。ただし、いつでもホテルの予約はしておいたほうがよい。

 

歴史

ガラス製品でヨーロッパ市場を独占

5〜6世紀、ヴェネトとアドリア海沿いの古代ローマ都市に住んでいた人々は、異民族の侵略を避けるため、ヴェネツィア潟内の島々へ逃げ込んだ。


6世紀になると、これらの島々はゆるやかな連邦を形成し、各地区の代表からなる中央組織が作られていった。だがこの連邦組織は、実質的にはラヴェンナRavennaに置かれた東ローマ帝国総督府の支配下にあった。8世紀初め、イタリアにおける東ローマ帝国の勢力が弱まると、726年にはヴェネツィア市民たちが初代のドージェdoge(総督)を選出した。以後、このドージェの後継者が1000年以上にわたってこの都市を治めたのである。


1095年の第一次十字軍遠征による混乱に乗じて繁栄したヴェネツィアは、11世紀末までには地中海沿岸の貿易拠点として大きな力を持つようになった。ヴェネツィアはこの後も十字軍遠征によって利益を拡大し続ける。13世紀初めには、エンリーコ・ダンドロ総督のもと、第四次十字軍を率いてコンスタンティノープルへと遠征し、壊滅的な打撃を与えた。ヴェネツィアは、その偉大な都市から略奪した多数の財宝のみならず、遠征時に獲得した多くの領地を保持し、東地中海での覇権を強化した。1271年、若いヴェネツィア商人のマルコ・ポーロは、父と叔父とともに中国への陸路の旅に出発し、その20年以上後に海を渡って帰国した。彼らの冒険は、ヴェネツィアの進取の精神を象徴するものとなった。


13〜14世紀の間、ヴェネツィアは制海権をめぐってジェノヴァGenovaとの紛争を続けた。激しい争いの末、1380年、歴史に残るキオッジャChioggiaでの包囲戦で、ヴェネツィアはついにジェノヴァを下す。今度はイタリア本土の支配へと目を向けたヴェネツィアは、現在のヴェネト州のほとんどの地域と、ロンバルディア州およびエミリア・ロマーニャ州の一部を獲得した。


しかし、ヴェネツィアの力の及ばないところで起こった数々の出来事が、このラグーンの都市に大きな影響を与え始める。力を増してきたトルコに対して、ヴェネツィアは地中海の制海権を守るために軍事力を行使せざるを得なくなった。そして1453年にコンスタンティノープルが、1499年にヴェネツィア領だったモレアMorea(現在ギリシャ)が陥落し、アドリア海の支配権をトルコに奪われてしまった。


さらに、1492年にアメリカ大陸が発見され、1498年にポルトガルの探検家ヴァスコ・ダ・ガマによってアフリカの喜望峰を回る航路が開拓されたことも、やがてヴェネツィアの痛手となった。新しい貿易路が開かれたため、地中海航路の重要性は次第に薄れ、ヨーロッパの貿易商人たちはヴェネツィアが課す税金を払わずに済むようになったのだ。


それでもなお、ヴェネツィアの恐るべき力は長らく衰えなかった。ドージェやシニョリーアSignoria(10名の高官で構成される行政をつかさどる組織)による厳しい支配体制が敷かれ、後に登場する司法機関、コンシーリオ・デイ・ディエチConsiglio dei Dieci(十人委員会)は、その強権により人々にひどく恐れられた。これら支配者層の下に、議会と政府委員会からなる複雑な制度があり、その中で国会にあたるのがマッジョール・コンシーリオMaggior Consiglio(大評議会)だ。選ばれた指導者であるドージェは国の首長であり、一般的には政府の最高権力者だったが、抑制と均衡をはかる複雑な機構によりその権力は抑えられていた。結局のところ、ヴェネツィアは緊密な結びつきを持つ寡頭制により支配されていたのだ。1297年の法令により、大評議会の構成員は事実上、一部の名門家系に限られることとなった。


国家の安全のため、共和国の利害がからむあらゆる場面において、ヴェネツィア市民は互いにスパイしあうよう奨励され、国益を損なうとみなされた行為には、即刻容赦ない罰が下った。裁判が公開で行われることはまれだったが、公開処刑はよく行われ、その主な会場となったのは、サン・マルコ小広場Piazzetta di San Marcoに立つ聖マルコのライオン像と聖テオドロス像を擁する2本の柱の間だ。ときには、言うことをきかない市民への見せしめとして、道端に死体が置かれることもあった。


ヴェネツィアは驚くほど国際色豊かな所で、パリ人からペルシャ人まで、世界中の人々がその商業活動に引き寄せられて集まった。ヴェネツィアはまた、ヨーロッパ最初のゲットー(ユダヤ人居住区)の一つにユダヤ人たちを集めて、彼らの商業・社会活動を制限したものの、ユダヤ教の信仰についてはいっさい口出ししなかった。同様にアルメニア人に対しても数世紀にわたって宗教的自由を許し、悪名高い異端審問の時代には保護も行った。


ヴェネツィアは、贅沢品の通商や生産でますます豊かになっていった。現在ムラーノ・ガラスの名で知られるガラス製品の製造ではヨーロッパ市場を独占。ヴェネツィア商人たちはモザイク製作の技術を持ち帰り、職人の手からは、良質な絹や繊細なレースが生み出された。


しかし、市民たちがこの世の春を謳歌している間にも、ヴェネツィアの力は傾きかけていた。16〜17世紀、トルコと教皇領はヴェネツィア共和国を踏み台にして繁栄していた。そして1669年、ヴェネツィアはトルコとの25年間の戦いの末、最後の地中海の拠点だったクレタ島を失った。


1797年、大評議会はついに憲法を廃止し、ヴェネツィア共和国はナポレオンに明け渡された。ナポレオンは共和国をオーストリアに譲渡したが、1805年、再びこの地に戻り、みずからが築いたイタリア王国にヴェネツィアを組み込んだ。やがてナポレオンが没落すると、ヴェネツィアは再びオーストリア領となった。イタリア統一の動きはすぐにヴェネト地方にも広がり、数度の反乱の末、ヴェネツィアは1866年にイタリア王国に編入された。その後ヴェネツィアは第一次世界大戦中に爆撃を受けたが、第二次世界大戦では、大部分の攻撃はメストレMestreやマルゲーラ港Porto Margheraなど近隣の工業地帯に向けられたため、わずかな被害で済んだ。


19世紀に入ると、貿易港としてはトリエステTriesteのほうが栄えるようになり、それにつれてヴェネツィアは観光地としての名声を高めていった。今では定住人口はほんのわずか(1950年代の半分以下)となったヴェネツィアだが、毎年2000万人にものぼる観光客(大半は日帰り客)が、町ににぎわいをもたらしている。

 

オリエンテーション

交通機関は水上バスのみ

ヴェネツィアは117の小さな島からなり、150の運河と409の橋がある。大運河に架かる橋はリアルト橋、アカデミア橋、スカルツィ橋Ponte dei Scalziの3つのみだ。ローマ広場Piazzale Romaと(駅へ続く)サンタ・ルチア河岸通りFondamenta di Santa Lucia の間には、4つめの橋としてカラトラーヴァ橋Ponte di Calatravaがすでに架かっているはずだったが、いろいろな問題があって完成が大幅に遅れている。


浅瀬のラグーナ・ヴェネタLaguna Venetaが南北に広がり、その中に大小の島々と岩が、粉々に砕いたモザイクのように点在している。そのなかで興味深い島は、ラグーナの北半分に位置するムラーノMurano島、ブラーノBurano島、トルチェッロTorcello島の3島だ。東側で防波堤の役目を果たす細長いリド島Lido di Veneziaは、南へ10kmほど延びていて、その先には同じく細いペッレストリーナPellestrina島が、静かなキオッジャの町へと続く。ここが本土との接点となり、ラグーナの南への広がりをせき止めている。


ヴェネツィアは6つのセスティエーレsestiere(地区)に分かれている。カンナレージョCannaregio、カステッロCastello、サン・マルコSan Marco、サン・ポーロSan Polo、ドルソドゥーロDorsoduro、サンタ・クローチェSanta Croceで、分割は1171年に行われた。東側には観光客にほとんど知られていないサン・ピエトロSan Pietro島とサンテレナSant’Elena島があり、サン・ピエトロ島は2つの橋で、サンテレナ島は3つの橋で、カステッロと結ばれている。


ヴェネツィアまでは車で行くことができ、駐車も可能だが、いったんヴェネツィアに入ったら運転できる場所はどこにもない。リド島へはカーフェリーで車を入れることができる(といっても、バスのほうが断然便利)。ヴェネツィアでの交通機関は、運河を行くヴァポレットvaporetto(水上バス)だけだ。橋と橋の間で大運河を渡るときは、トラゲットtraghetto(渡し船)を使う。短時間でゴンドラ乗船を楽しむなら、この方法が安上がりだ。トラゲットの乗り場は、看板が出ているのでわかる。


そして、もう一つの移動手段がア・ピエディa piedi(徒歩)だ。鉄道駅からサン・マルコ広場までは歩いてたっぷり30分かかる。標識をたどって行こう。


サン・マルコからリアルト橋やアカデミア橋、鉄道駅などの主な場所へ向かう道順は、標識が十分に出てはいるが、ドルソドゥーロやサン・ポーロなどの地区ではわかりにくいこともある。

マップ

ヴェネツィア
注目情報

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