ここから本文が始まります

トラベルトップ > 特集 > イタリア特集 > 北から南へ、イタリア完全踏破:ボローニャ

イタリア完全踏破|ボローニャ - MSNトラベル×ロンリープラネット

イタリア

ボローニャ

なんで「赤いボローニャ」なの?

ボローニャ

Neil Setchfield

赤レンガなど、ありふれていて田舎臭いと思っている人も、ボローニャを訪れれば目からうろこが落ちるはずだ。この街が「赤いボローニャ」と呼ばれるのには、それなりの理由がある。このニックネームは、政治的傾向(つい最近まで、ボローニャは左翼民主党Democratici di Sinistraの砦だった)と、優美なモニュメントの数々や、40km以上にわたってポルティコ(柱廊)が連なるアーケードがまとっている、この街の色彩の、両方を反映しているのだ。 写真を拡大する⇒

最盛期の1970年代にはとうてい及ばないものの、大学は今も学生運動の拠点となっている。こうした学生たちと、イタリアでは比較的組織化が進んでいるゲイ・コミュニティとが相まって、この街にはエミリアの他の小都市にはない活気がある。市当局は惜しみなく資金をつぎ込んで創意に富んだ芸術プログラムを企画し、口うるさい各種カルチャー通たちを虜にしている。

 

歴史

最盛期にはヨーロッパ一の大学を擁す

ボローニャは、紀元前6世紀にフェルシネアFelsinaとして誕生した。それから2世紀の間は、ポー川流域に広がるエトルリアの領土の首都だった。その後ガリア人に占領され、ボノニアBononiaと名を改める。ガリア人の支配は数百年続いたが、北進してきたローマ帝国に明け渡された。西ローマ帝国が崩壊すると、ボローニャは、西ゴート族、フン族、ランゴバルド族によって、次々と略奪、占領された。


自治都市、そしてヨーロッパ一の大学を擁する都市として、ボローニャは12世紀頃に最盛期を迎える。その豊かさが建設ブームを招き、裕福な一族はみな塔を建立して、その足跡を残した。その数は180に及び、うち15が現存している。北イタリアの支配を巡って、教皇勢と神聖ローマ帝国は果てしない争いを繰り広げ、ボローニャも必然的に巻き込まれていく。この町はグエルフィGuelphs(教皇派)側について、ギベッリーニGhibellines(皇帝派)に対抗したが、14世紀には中立を保つようになった。


ボローニャを支配していたベンティヴォリオ家に民衆が反乱を起こし、一族の宮殿が破壊されると、1506年に教皇軍がボローニャを占拠した。その後この町は、18世紀末にナポレオンがやって来るまで、教皇の支配下に置かれることとなる。1860年、ボローニャは新たに建国されたイタリア王国に組み込まれた。第二次世界大戦末期の激しい戦闘で、商業建築物の40%までが破壊されてしまう。しかし、城壁内の旧市街は戦火をまぬがれ、今も愛情を込めて大事に保存されている。


現在のボローニャは、イタリアのハイテク産業の中心地で、多くの見本市が開催されている。

 

オリエンテーション

楽に歩いて回ることができる

ボローニャは楽に歩いて回れる街。街を南北に貫くメインストリート、インディペンデンツァ通りVia dell’ Indipendenzaが、駅とバスターミナルから、市街中心部のネプチューンの広場Piazza del Nettunoとマッジョーレ広場Piazza Maggioreまで延びている。

マップ

ボローニャ
注目情報

Text & maps © 2008 Lonely Planet Publications. All rights reserved.

Photos c 記載の写真家。Lonely Planet Images より掲載、使用許可は右記のURLから可能 www.lonelyplanetimages.com

内容のいかなる部分もロンリープラネット社の許諾なしに複製・複写・放送・データ配信することはかたくお断りします。内容は、ロンリープラネット社のガイドブック英語原書『Italy』の日本語版『イタリア』(メディアファクトリー刊)から引用しています。

執筆者、コンテンツ提供者と日本語版発行者である(株)メディアファクトリーは可能な限り正確な情報を記載するよう努めているが、本情報の使用により被った一切の損失、損害に対しては責任を負うものではない。