
あまりにも美しすぎる芸術の都
アルノ川のほとり、オリーブ畑やブドウ園が広がる低い丘陵地帯に位置するフィレンツェは、たちまち人の心をとらえる魅力にあふれている。ルネサンス発祥のこの地にはメディチ家が君臨し、マキアヴェッリやミケランジェロが生まれた。他の町には不公平なほど芸術や文化、歴史に恵まれた町だ。 写真を拡大する⇒
交通渋滞や夏のむせ返るような暑さにもかかわらず、毎年、何百万人もの観光客が訪れる。フランスの小説家スタンダールはサンタ・クローチェ聖堂の荘厳な雰囲気にすっかり心を奪われ、めまいのあまり歩くこともできなくなったという。この町の美しさに圧倒されるのは何もスタンダールだけではない。フィレンツェの医者たちによれば、この“スタンダール症候群”に倒れる旅行者が毎年数十名はいるらしい。
フィレンツェを堪能するには、少なくとも4〜5日必要だろう。
ルネサンス発祥の地
誰がフィレンツェという町を興したか、いまだに論争が絶えない。一番広く受け入れられているのは、紀元前59年頃にユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)がフローレンティアFlorentiaを拓いてアルノ川Fiume Arnoの川幅が最も狭いところに戦略上の要塞を築き、ローマとイタリア北部やガリア地域を結ぶフラミニア街道Via Flaminiaを掌握しようとしたという説だ。しかし、すでに紀元前200年頃にはフィエーゾレFiesole(フィレンツェの北部)にエトルリア人の集落があった、とうかがわせる出土品も発見されている。
12世紀初めにはコムーネcomune(自治都市)となり、主に裕福な商人階級から選ばれたコンシーリオ・ディ・チェントConsiglio di Cento(百人評議会)の補佐を受けながら、12人のプリオーレpriore(統領)によって治められていた。やがて派閥間の争いが激しくなったため、1207年には外部の人材をポデスタpodesta(執政長官)として任命するようになった。
教皇派のグェルフGuelfoと神聖ローマ皇帝派のギベッリーノGhibellinoの対立が最初に起こったのは13世紀半ばのこと。その後ほぼ1世紀もの間、実権が二つの間を行き来する状態が続いた。
1290年代、グェルフはネーリNeri(黒党)とビアンキBianchi(白党)に分裂した。この二つの派閥の争いに破れて1302年に追放されたビアンキの中には、詩人のダンテもいたという。貴族階級が勢力を失うにつれてグェルフの商人階級が実権を握るが、それで問題がなくなったわけではなく、1348年に大発生したペストの影響で人口は半減し、下級階層からの高まる揺さぶりに政府は悩まされた。
14世紀後半のフィレンツェはアルビーツィ家を中心とするグェルフの有力家門に支配されていたが、対抗勢力の中には、教皇庁の御用銀行となって影響力を格段に強めてきたメディチ家があった。
15世紀になると、コジモ・デ・メディチがアルビーツィ家に対抗しうる一大勢力の領袖となり、やがてフィレンツェを支配するに至った。芸術家の才能を見抜く眼力を有したコジモの庇護のもと、アルベルティ、ブルネッレスキ、ロレンツォ・ギベルティ、ドナテッロ、フラ・アンジェリコ、フラ・フィリッポ・リッピらそうそうたる面々が活躍した。今も残るフィレンツェの美しい建築物の多くを見れば、コジモの審美眼が正しかったことは一目瞭然だ。
コジモの孫であるロレンツォ・イル・マニフィコが君臨した時期(1469〜92年)は、フィレンツェの文化とイタリア・ルネサンスの最も輝かしい時期と重なる。彼の宮殿からは芸術や音楽、詩歌の偉大な作品が花開き、フィレンツェをイタリアの文化の中心へと押し上げた。
ロレンツォはメディチ家の伝統を重んじ、ボッティチェッリやドメニコ・ギルランダイオといった芸術家を保護し、レオナルド・ダ・ヴィンチや若き日のミケランジェロを支援した。
ロレンツォは1492年に亡くなったが、その直前にメディチ家が経営する銀行が破綻し、一家はフィレンツェから追放された。ドミニコ会修道士のジローラモ・サヴォナローラが市政の実権を握って禁欲的な共和体制を目指すが、次第に民衆の支持を失い、1498年に異端者の烙印を押されて処刑された。
1512年にフィレンツェがスペインに敗れると、神聖ローマ皇帝カール5世は娘をロレンツォの曾孫にあたるアレッサンドロ・デ・メディチと結婚させ、アレッサンドロを1532年にフィレンツェの公爵にした。だがその7年後、コジモ1世が権威の座についた。彼は、メディチ家の長い歴史の後半で真の実力を発揮したひとり。彼はシエナをフィレンツェに屈服させると1569年にトスカーナ大公となり、その後150年以上にわたるメディチ家のトスカーナ支配の礎を築いた。
1737年、トスカーナ大公位はフランスのロレーヌ家に引き継がれた。途中、ナポレオンによる統治で中断された期間があったものの、ロレーヌ家のフィレンツェ支配はこの地がイタリア王国に併合される1860年まで続いた。フィレンツェは一時期、王国の首都となったが、1870年以降はローマがその座に君臨している。
第二次世界大戦中、フィレンツェは退却するドイツ軍によってひどい破壊行為を受け、ヴェッキオ橋をのぞくすべての橋を爆破された。1966年には未曾有の大洪水に見舞われ、建造物や芸術作品にはかり知れない被害を受けた。1993年にはマフィアによる自動車爆破事件が発生。死亡者5名、負傷者37名という大惨事となり、ウフィッツィ美術館の一部が破壊された。だが、わずか10年後、美術館は展示スペースを倍増すべく、かつてないほどの拡張工事を行っている。
市内観光は、駅を起点に
列車、バス、自動車のいずれでも、鉄道の中央駅であるサンタ・マリア・ノヴェッラ駅Stazione di Santa Maria Novellaを基準に市内観光を始めるとよい。駅からパンツァーニ通りVia de’Panzaniとチェッレターニ通りVia de’Cerretaniを経て10分ほど歩くと、大聖堂Duomoへ着く。
大聖堂の隣のサン・ジョヴァンニ広場Piazza di San Giovanniからローマ通りVia Romaを歩いていくと、レプッブリカ広場Piazza della Repubblicaへ着く。さらにカリマーラ通りVia Calimalaからポル・サンタ・マリア通りVia Por Santa Mariaを進むと、ヴェッキオ橋Ponte Vecchioに到着する。
大聖堂からカルツァイウオーリ通りVia de’Calzaiuoliを進むと、政治の中心だったシニョリーア広場Piazza della Signoriaだ。ウフィッツィ美術館Galleria degli Uffiziはこの広場の南端に、アルノ川を望むようにそびえている。

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