
ラマ1世が即位してから5年目に生まれたどこまでも情熱的で無鉄砲な詩人、スントーン・プー(1786〜1855年)は、おそらくタイが生み出した最も偉大な文芸家の一人である。彼の幻想的な詩はこの世の無常をテーマに展開されるものが多く、世界中の人々に愛され、研究されている。彼の最も有名な叙事詩である「プラ・アパイ・マニPhra Aphai Mani」は、旅に出た2人の兄弟の冒険を描き、旅の途中で出会う巨人、人魚、魔法の笛などが登場する。プーの詩はどれも写実性に優れているため、専門家たちは「プラ・アパイ・マニ」の大部分はサメット島を舞台に描かれたと考えている。
プーの両親は彼がまだ幼い頃に別れ、父親は故郷のラヨーンへ戻って僧になった。一方、息子と暮らす母親はバンコクにとどまって再婚し、宮廷の乳母となった。
プーは若い頃から詩を書き始めていた。10代で宮廷に仕えるチャンという名の女性との恋愛にときめき、さらに精力的に詩作に励むようになった。しかし、宮廷内での恋愛は禁じられていたため、若い2人は宮廷の牢獄へ入れられてしまった。20歳のときに釈放されたプーは、ラヨーンで僧になっていた父親のもとへ行くことにした。旅の途中で、彼は「ニラット・ムアン・クレーンNirat Muang Klaeng」を書いた。チャンへの募る想いに駆られて綴った彼の最初の秀作である。
父親のところへ来てからわずか2カ月でプーは病にかかり、バンコクへ戻らなければならなくなった。彼の計画はうまくいかなかったが、戻ってきたことは無駄ではなかった。牢獄から出た愛しのチャンが、まだプーのことを想い続けていたのだ。2人は結婚し、パットという名の息子を授かった。ところが、偉大な詩人にはよくあることだが、彼の情熱は別の対象、つまりお酒に向けられるようになった。まもなく彼とその妻の間には言い争いが絶えなくなり、これまで育まれたいくつもの詩において愛情の対象であったチャンは、ついにプーのもとを去って別の男性のところへ行ってしまった。
スントーン・プーが宮廷詩人として仕えるために最初に宮廷に招かれたのは、1809年にラマ2世が即位したときだった。新しい王は自身も優れた詩人であり、プーを心から慕い、自分の詩作に行きづまるとつねに彼に助言を求めた。彼の作品「ラーマキアンRamakian」も、そうしてつくられた詩である。
その一方で、ラマ2世の息子も詩に傾倒し、当時クン・スントーン・ウォハーンの称号を得ていたスントーン・プーに教えを請うようになった。しかし、この若い王子はプーの批評に気を悪くし、1824年にラマ3世として即位すると、最初の王命としてプーを宮廷の任務から外すように命じた。社会的地位と収入を奪われたプーは、18年の間僧として過ごした。後にラマ3世の王子がプーに関心を持ちはじめ、彼はその王子の寵遇を受けるようになった。しかしそのわずか3年後、後ろ盾だった王子が亡くなり、プーは再び住む家もない無一文に成り下がった。
しかし、プーの宮廷での仕事はこれで終わりではなかった。まもなくして、モンクット王子が寵愛する弟のイサレスランサン王子が、彼を宮廷に招き入れた。そして、モンクット王子がラマ4世になったとき、彼はプーにプラ・スントーン・ウォハーンの称号を与えた。詩を愛する4人の王の治世にわたって、偉大な詩人として波乱の人生を生き抜いたスントーン・プーは、70歳で亡くなった。彼の称号と名声は永遠に損なわれることはないだろう。
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